午後の石八前広場♪

 本当に綺麗になった!!!
きっと夕陽もー
どこがどう変わったのか・・・
今日の夕方(左)と、3月21日の夕方(右)の写真。撮影の位置が違うので…証拠写真になるかど~~~か。
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今日夕方の斜面下。
まりふのひとさんの仕事っぷりをパノラマにしたつもりが、上手くいかなかった…

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午後の広場は春休みのチビッ子兄弟が、ジジババちゃんとタケノコ探しでやって来た。
Mさん夫婦も来られ、わぁ~わぁ~と賑やかだった。
…まりふのひとさんは独り、竹の切り出し…<(_ _)><(_ _)>




山桜が咲いていたんだ、と初めて気が付いた。
石八前広場近くの道路沿いに咲いている山桜。
去年よりグンと大きくなった気がする…


樹げむ舎さんの、"こぼれ話「お花見」"に興味♪
引用させて頂いた<(_ _)>
樹木図鑑(ヤマザクラ)

こぼれ話 「お花見」
「花見」を広辞苑で調べると、「花(おもに桜)を見てあそびたのしむこと」とある。現代では、お花見の対象はソメイヨシノになっているが、ソメイヨシノが広まる明治以前は、お花見と言えばヤマザクラだった。吉野の桜とは、このヤマザクラである。
庶民にまで花見が定着したのは、落語の「貧乏花見」にあるように江戸中期とされている。江戸では上野寛永寺のサクラが有名だったが、徳川吉宗が、庶民も花見を楽しめるようにと飛鳥山(東京都北区)や浅草隅田川河畔にサクラを植えさせた。上野の山は酒、団子が御法度だったため、庶民には飛鳥山隅田川が人気だったようだ。(写真「絵本江戸土産」あすか山花見のてい)
さらに時代を逆上ると、花見の対象がヤマザクラになったのは平安時代以降とされている。当時の花見は、文化人や貴族の宴で、おもに歌集や文学作品の中からうかがえる。平安以前は、中国文化の影響が強く、花と言えばウメになる。「万葉集」にもウメの花をめでる歌が多い。

江戸時代のお花見・・・行ってみたい。